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七咲家の人々:詞と純一 素描1





湯を張ったときには換気扇を回すように、彼の母親は口うるさく言うのが常だった。もちろん、それでも純一はその言いつけを守ることはなかった。ずっと昔から、七咲家のきょうだいの半分も一度に収めるほどの働きをしたことのついぞなかった浴槽は今でも純一ひとりの体にひどく小さく、彼は糸くずのような湯気を水面から突き出た脚をついたてのようにして新聞に目を通していた。もっとも、このもやの中で文字が読めたらの話だったが。棚にはドラッグストアから収集されたどぎつき色の薬品類がひしめき、蓋の空いた幾つかの瓶からは桃色の煙が浴槽から立ち上がる湯気を染めるべくぬめる壁を這うように広がっていた。
「聞いてるの、純一」先ほどから続けられていた呼びかけはやまず、ついに純一は応えざるをえなくなっていた。「タオルを置いておいてくれないかな、母さん」
だが呼びかけた当人は再び風呂場から離れ、今朝から純一がこうして浴槽への籠城を余儀なくされた原因となったところの問題のドアへと向かっていた。
半ばヒステリックに呼びかける母親の声を頭上に遠く聞きながら、純一はいかにも大儀といった具合にぬるま湯につかった身をもたげた。臀部に新聞紙が張り付く。
「タオルを置いておいてくれないかな」再び戻ってきた母の足音に、彼はまた言った。
「ようやく陸に上がる気になったの」半分以上諦めの混じった声がくぐもって響く。
「僕たちは奇形児なんだよ」まったくあの子といい、と続ける母親に向けるでもなく、彼は言った。
「何だって?」
「何か聞き出せたの?朝から押し問答してたんだろう」だが純一としても、「あの子」のことが問題であるのは事実だった。

桜井梨穂子について ソエン






 桜井梨穂子は激怒していた。指の先が素足のまま絨毯の細かな毛をむしる勢いでわしづかみにし、膝はその体重を支えることが困難なほどに小刻みに震えていた。その震えは今しがた通話を終えて耳障りな音を発し続ける受話器にまで伝わり、それを握る手には深く爪が食い込んでいた。
 桜井梨穂子は激怒していた。彼女がかつてこれほど怒りという感情に襲われたことはなかった。彼女は理解したのだ、「幼馴染」を演じ続けてきた自分の、そしておそらくは幾分かの相手の一年と少しの時間はすべて意味をなさないものであったということが。彼女に許せなかったのはその時間が無駄となったことではない、何よりも自分がそんな茶番につき合わされたことが、自分がそのような振る舞いを続けてきたという屈辱が彼女には何よりも耐え難かった。長い間身をつますようにしてしのんできた辱めが、まさに今堰を切るようにあふれ出したのだ。
「いま、テレビに出ていなかった?」鍋を逆さにして火にかける大陸からかかってきたかのようなその電話がかかってきた時点で、受話器を叩きつけてやるべきだったのだ。そうすればこれほどまでに行き場を失った怒りを抱えることはなかったかもしれない。桜井梨穂子はその少女の存在を既に知っていた。一見自分でも見紛いかねないような容貌を持ったその少女が数週間前にあるアイドルグループに加わり、バックダンサーの一人程度の役割とはいえメディアに露出しうるような地位を手に入れた――そしておそらくは、やがて誰にも顧みられることなく退場の憂き目にあう――ことを、数日前には彼女の友人から知らされて既に聞き知っていた。それだから、その電話は桜井梨穂子にとっては可能性の一つとして予め期待されたものではあったのだ。たとえ針の孔を通すような格率ではあれ、その類の電話はかかって来うることは彼女にはある程度予見されていたことだった。
 予測だにしなかったのは、自分自身の口からでた応えだった。あまりにも期待した通りの問いかけに動転してしまったのかもしれないし、あるいはもうその時点で怒りが全身を突き抜けていたのかもしれない。あろうことか、彼女は肯定したのだった。彼がたった今テレビに見た少女の姿は自分のそれに他ならないと、そればかりか彼女は演じさえして見せた。幼馴染に黙ったままデビューを果たし、アイドルになった少女を。あまりにも馬鹿げた設定だった。相手が少しでもそれをからかう素振りをみせさえすれば、すぐにでも撤回するつもりだった。しかし気づけば、顔面蒼白になった彼女の耳を叩くのは通話を終えたことを知らせるこちらの気を逆なでするような電子音であった。
 一階の居間からは、拍手の残響が遠く聞こえている。ぱたぱたという足音とともに母が報せをもって階段を上ってくるまでは、そう時間はかからなかった。
 

L'amagami que je ne suis plus.





 何の考えもなしに車を停めたに違いなかった。強い風に吹かれた雨が、もはやその境界が曖昧となったねずみ色の埠頭と海面を毛羽立った鏡のようにたわめていた。その深い青色の車はそのもう使われなくなって久しい埠頭の先に停められていた。これが五年も前なら地元の漁師が大声でこの車の持ち主に陸から呼びかけただろうが、いずれにせよこの風雨のなかでは声が届くかどうかも怪しかった。
「昔もこんなことがありましたよね」こんな嵐にもかかわらず、車内は不思議に静かだった。女の声が、深い穴の底から上ってくるかのように響く。すえた匂い。
「こんなこと?」運転席に座った男には覚えがないことだった。「忘れちゃいましたか?」そう問いかけられてもなお、思い出すことができない。
「ほら、冬の海に。二人で行ったじゃないですか」そこまで言われて男はやっと、昔の記憶に思い当たる。何年前のことだったか。他に人もいるはずのない真冬の砂浜を二人で訪れた。ただその時はこんな雨は降っていなかったし、彼女の髪はもう少し短かった。あれは彼女が髪を伸ばし始めたころの記憶だ。
 そういえば、気にしない間にずいぶんと伸びたものだった。学生時代はずっと運動をしていたわりには狭くて華奢な肩を流れた黒髪が、胸の上で小さく上下している。猫の足音ほどの呼吸の音が緩慢に車内に充満していた。
「昔のこと」女が口を切った。「昔のこと、聞かせてください」。昔って、と男は思った。
「私と会う前、昔の話」。ごおっと一瞬風が強くなり、車体を雨がつよく叩く。「そうですか」嘲笑うとも嗜虐的とも見える笑みを浮かべると、それを男から――自分からも隠すように男の膝にしな垂れかかった。肋骨の間に立てつけられたサイドレバーに顔をしかめる。醜い突起だった。助手席から伸ばした女の身体に、どんな体勢にあっても痛みをあたえずにはいない。「逢は?」義務的に投げかけられる問いを無視して、逢と呼ばれた女は低いうなりに耳を澄ませた。「してあげます」女は髪をかき上げて言う。車はゆっくりと動き始めていた。

 僕がもはや追わないし、またそうでないところのアマガミ。

七咲郁夫 固有名詞についての覚書





 一種の防衛機制なのかもしれないが、郁夫は周囲の人間――特に姉、七咲逢と関わりのあった人間の名前を言葉あそびと共にとらえていた。その習慣は長期にわたって続いたわりに、あまり言語的な領野に才能を感じさせるものではなかった。大半は名前の最後の二、三文字を切り離しただけで、またその不名誉にもその名前を与えられた当人たちの性格を反映したものとは必ずしも言うことのできないものが多かった。それでも彼じしんとしては気に入ったものもあったようで、絢辻詞は彼の手稿に現れる際はほとんど毎回「傘」と言いかえられている。
 ただ郁夫本人にとって最も大きな意味を持っていたと思われるのは、おそらく義姉の名前の終わりの三文字が「悩み」のアナグラムとして読めることだ。彼は義姉の名前を絢辻詞や桜井梨穂子(=矛)についてそうしたほど執拗に書き換えることはしていない、というよりも、手稿を観る限りこのアナグラムに関してはむしろ彼自身に対して隠蔽が行われているような観が強い。ある余白において、他の実験的ことば遊びと共に一度だけ彼は「橘美也=なやみ」と乱雑な字で記している――ちなみにこれと並んで殴り書きにされた名前のうちには「七咲逢=気合い」も見られるが、よほど馬鹿らしかったのかこれも同じく二度と手稿中に現れることがない。
 それでもやはり彼の手稿において、この日がひとつの転換点になっているのは間違いないようだ。義姉に対する言及は、これ以降常に鬱曲した記述とともになされることとなる。多くの場合、演出を買ってでるのは逢の役目だった。「死者によって義姉と結び付けられていることに、僕は安堵さえ覚える」この露悪的な調子は美也について語る彼の記述の随所にみることができるようになる。
 義姉についての言葉遊びは、だがそれが表だって現れないということにあるのではない。重要なのは、義姉について当てつけられた言葉だけが唯一状態を表す名詞であったことだ。矛や傘といったモチーフは宿主当人の記述を規定することはあれ、それはやはり郁夫自身によって管理されたもの、少なくとも彼の積極的な配慮の対象となりうるものであった。美也の特権性は、もはや郁夫の手を逃れたかたちで彼の手稿全体を取りまく気分となっていることにある。もちろん彼の手稿それ自体が主に義姉との関係について費やされているという理由もあるが、全体として陰湿な語りを基調とする彼の手稿においては、橘美也の名前がそれを中心として霧が収斂する点のようにして機能しているかのような印象をうける。彼女と郁夫の間に交わされた痴情と呼ばれうるべき関係のうちで時折その姿をのぞかせる艶めいた記述も、やはり結露の滴としての冷やかさをその基調としていたことを思い出そう。結局彼らの関係もまた、それがみずからをの存在を負っているもの(彼らの兄/姉夫婦を乗せたミニワゴンだ、例によって)をめぐる代理戦争として機能していたというだけのことであったのかもしれない。
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